身近な幸せを大切にしましょう♪
ネットで意見表明なんてしてると、いくら議論しても堂々巡りの平行線のままなんてことがザラにあって、世の中にはいろんな考えの人がいるんだってことがホントによくわかる。
世の中にはいろんな“正しい”(とその人が思う)考えがあり、交わらなかったり交わったりしているんだよね。。。
人の心、考えはまさに十人十色。しかも時によってもまた移ろうもの。
そんな世の中で、果たして全ての人に共通した絶対的真理なんてものがあるのだろうか?
十人十色それぞれの心にあわせて真理もまた様々で、時により移ろうものなんじゃないだろうか。
実際、それぞれの集団が考える絶対的真理や正義、道徳が同じじゃなくてお互い認めないからこそ、この世には争いがなくならないんじゃないのかなぁ。。。
たとえば、全知全能・唯一絶対の存在を信じる人たちがこの世にはたくさんいるよね。
で、大抵はその存在は『神』なんて呼ばれてたりするんだけど、その唯一絶対のはずの『神』が世の中には何人(人でいいのかな?)かいたりする。
そして、それぞれを信じる者たちがお互いに認めずに争ったりする。
これってそれがすなわち、この世の中に唯一絶対はないということを示しているようになぐなぐは思うんだよね。
でもそう考えると、逆説的ではあるけれど『人の世に争いは決してなくならない』というのは絶対的真理と言っていいのかもしれないよね。
そして、岡本太郎氏のように「ぶつかることが調和なのだ」と思える境地こそ“悟り”“達観”というやつなのかもしれない。。。
話は変わるけど、唯一絶対の存在を信じる人たちは独裁政治至上主義だよね。きっと。
だって、彼らの求める世界ってずばり『唯一絶対の存在が独裁する世界』なんだもんね。。。
なぐなぐは神は信じないけど、でも独裁政治も悪くないとは思っています。
なぜなら、民衆を野放しに自由にさせるよりも民衆より賢い者が独裁した方が社会のレベルが高くなると思うからです。
民衆の自由度の高い社会で、それぞれが同程度に発言権を持ち、多数決で物事が決まる社会では、大きな失敗はない代わりに進歩もなく、堂々巡りで同じことを繰り返し、物事が先に進みません。
今の日本を見ればわかりますよね。
このとき、かなり賢い独裁者が現れて、ぐだぐだ文句ばかり言う人たちを黙らせて社会の構造を一気に良い方に変えてくれたらどうでしょう。
きっとその社会はものすごくレベルの高い社会になります。
だから、なぐなぐは独裁政治も悪くないと思うわけです。
でも、独裁政治には、民衆より愚かな者がトップにつく、または独裁者がなんらかの理由(慢心や変心、老齢化など)で民衆より愚かになってしまうと民衆を野放しに自由にさせる場合よりレベルの低い社会が形成されしまうというリスクがあります。
で、リスクが顕在化する度にその独裁社会は崩壊して消えていってしまいますから、結局のところは独裁社会は残っていかず、現実に最後に残るのは民衆を野放しに(※法という枠組みはありますがそれも民衆が考え出したものなので)自由にさせる社会(民主主義社会)になっちゃうんですよね。
と、いうわけで、いい独裁は社会のレベルを上げるんだけどずっとは続かないので、現実には民主主義の中で生きていくしかないってことになるんです。
で、その民主主義社会では、全体での意思の統一がうまくいかないから、社会全体としては同じことを繰り返してなかなか先へ進めず、社会としてのレベルがなかなか上がっていかないんですよね。
こういう社会では、マクロな視点で全体最適を考えることは無意味で、ミクロな視点で身近な幸せを追及する方が合理的です。
いくら全体最適を考えてもそれは実現されませんから、フラストレーションが溜まるか、自己満足・自己陶酔に浸って周囲の人たちから敬遠されてしまうか、どのみちあまりロクなことにはなりません。
それよりも、全体最適なんて放っといて身近な幸せだけを考えてた方がずっと幸せな人生を送ることができるはずです。
ってことで。みんな!!身近な幸せを大切にするがぜよ~♪(⌒▽⌒)ノ☆
―追記―
余談ですが、この意思統一のできにくい民主主義社会において、ある程度意思の方向をまとめていくためのツールとして考えるなら、宗教というのはかなり優れている部類に入るんじゃないかとは思っています。。。