衆愚政治。。。
先日、とある記事で【衆愚政治】という言葉を目にする機会があったので、これについて考えてみたい。
【衆愚政治】とは、辞書によると【自覚のない無知な民衆による政治。ペリクレス死後のアテネの民主政治の堕落を批判していった語。】とある。
なんだかわかるようで抽象的なので掴みにくい。
さて、この中で『自覚』とは何に対してのものだろうか。
僕は【負担に対する自覚】なのではないかと思う。
国や自治体、政府が財政的な支出をするとき、必ずそのお金は国民の誰かが支払うことになる。
このとき、国民に【それらの支出は自分たちが負担するのだという自覚】がなければ、国民は政府・自治体に対して「あれをしてくれ。これをしてくれ。くれくれくれ!!」と欲しがることばかりなってしまう。
しかも、負担を求められる段になると「税金を上げるなんてとんでもない!!」なんていう話になる。
そして、政治がそれに逆らえなければ衆愚政治となってしまうのだ。
お金はどんどん出す、税金は上げられない。国債で賄う。政府債務が積み上がる。それを負担するのは将来の国民、つまり私たちの子どもであり、孫であり、その先の子孫だ。
【将来世代からの搾取】
これが現代衆愚政治の姿だと言えるのではないだろうか。
衆愚政治にならないために、衆愚政治の片棒を担がないために、【政府・自治体は金のなる木なんて持っていない。政府・自治体の財布と私たちの財布は繋がっているのだ】という自覚をしっかりと持っていたいものである。
もちろん、これまで衆愚政治の片棒を担いできた方たちに、それ相応の負担をお願いするのもお忘れなく。。。